馬居政幸プロフィール

「UER-Labo開設記念特別企画:プロフィール的同時代史 第一部」

 UER-Labo開設記念特別企画として、UER-Laboを開設するまでに至った自己形成と調査研究の歩みを振り返ってみました。UER-Laboの顧問を引き受けていただいた先生方との出会いを語ることになると思います。その第一部が書きあがりましたのでアップしました。

少し長くなりますが、最後までお付き合いいただけるとことを願っています。

第一部 育ちと学びの時代

1)1949年徳島県鳴門市に生まれる(7月24日)。

○47、 48、49年に大量に生まれたベビーブーマー(団塊の世代)の一人です。市内のどの通りにも、同級生の家が並んでいました。1956年、入学した小学校の 教室の中は45人、上の学年は6クラス、私の学年は5クラスでした。さらに、敗戦後の教育改革で義務化された新制中学(略して「シンチュウ」)では、教室 の後ろの壁と椅子がくっつく55人学級で、1学年のクラス数はA~J(なぜかIは欠番)9でした。

○物心つくころから言われ続けたのは、 「おまえたちは数が多いから競争しなければ・・・」。その具体化の代表が高校受験を控えた中学校での成績による差別化の徹底。主要5教科の授業は成績順に 再配分された教室で行われ、数学は校内テストの出来不出来で席順も変わる。始業前の1時間と放課後の3時間が英数国の先生方による補修授業に充てられ、家 に帰ると夜の9時。競争に勝つことが人生、地域は何もない時代遅れの場所、四国を出て未来に羽ばたけ、といわれ続けた小中高生時代でした。

○ 兄弟姉妹が4人、5人、親は食べさすので精一杯、お母さんが働いていない友人は無し、というのが平均的家族像。ただし、私だけが例外、一人っ子の「箱入り 息子」として育った違和感と生活能力のなさが、現在の少子時代の子ども理解の原体験に・・・。ただし、私の母も働き続けた女性であったことが、家庭教育や ジェンダー論のもう一つの原体験になっています。

○後の研究内容への刻印となった出来事が、もう一つあります。小学校6年のときに父親が わ ずか5日の闘病で急逝したことです。現役(兵体検査)で召集され送られた戦地(ビルマ:現ミャンマー)で体内に取り込んだ病(アメーバ赤痢)が原因だった ようですが・・・我が家は母一人子一人の母子家庭に分類され、のちに研究者になって知った家族の分類では欠損家庭でした。今風の表現でいえば、母はシング ルマザーであったわけです。

◆団塊の世代、一人っ子、母子家庭、働き続ける母親・・・いずれも、少子化→高齢化→人口減少という日本社会 の 変化を働く女性の側から問い続ける視座を構成するピースですが、すでに60年代の成育歴の中で、私の身体に埋め込まれたようです。ただし、母のシングルマ ザー人生は、男に支配される女ではなく、上から目線で男を使いこなす逞しさとセットでしたが! 

2)1968年に東京教育大学教育学部に入学

○全共闘運動最盛期の1968年4月、13倍の倍率を克服して入学した新入生の夢と希望は、「ワレワレワー」から始まるリフレイン中心の単語の羅列の意味と感情を理解できない劣等感に押しつぶされて、田舎の秀才の自負は打ち砕かれました。

○ しかし、紛争の効用はありました。1年次は学生による、2年次は当局による大学封鎖。まともな講義をうける経験なく学部時代をすごした結果、自分で選んだ 本やテーマに没頭する自由は得ました。さらに、相手かまわず自分の考えを論ずる態度を学習できました・・・が・・・興味のない講義に耐える態度を身につけ ることはできませんでした。

○卒論は日本教育史の研究室で明治5年の学校騒擾をとりあげました。明治100年を契機に、非西欧圏において 唯 一近代化・工業化にテイクオフできた日本の秘密探しが言論界の流行でした。明治近代に関する研究書を神田の古本屋街で漁りました。歴史学者や教育学者より 社会学者の分析に共感とあこがれをストックする知的旅の始まりでした。

3)1973年に教育学研究科修士課程、75年に博士課程に進学

○ 選んだ研究室は卒論を書いた日本教育史ではなく教育社会学でした。資料の考証と解読による事実(真実?)という名のフィクションよりも、最初から現実は認 知者の数だけある、との立場から組みなおす社会学的思考に親近感をもったからです。ただし、このような自己認知は研究室の先輩方に説明するために組み立て た論。実は、そのような向学心の夢止みがたく、ではなく、入学時のコンプレックスをひきずったまま職に着くことができず、というのが修士課程受験の動機で した。博士課程はさすがにつぶしがきかないので、研究者になる覚悟をきめて受験しましたが・・・。

○修士論文のテーマは「K.マンハイムにおける知識人論の研究」。博士課程では、M.ウェーバー、A.シュッツ、P.バーガーとの比較から、マンハイムの知識社会学の再解釈を、とドイツ社会学の影響をうけた知識社会学の理論研究者になる夢を抱いての選択でした・・が。

○社会を知る(解釈:みる)ことと、社会を変える(実践:する)ことの狭間で苦闘する“知識の人(インテレクチュアル、インテリゲンチャ)”を卵時代の研究テーマに選んだことが、めぐりめぐって馬居教育調査研究所の開設に、と思っています。

◆ 日本版近代家族のモデル作りがスタートした1959年の皇太子結婚式は小学校4年、敗戦の傷を癒し、平和国家への脱皮を世界に宣言した東京オリンピックは 中学2年、高度成長の負の側面が噴出した1968年に大学に入学、経済大国への飛翔を夢見た大阪万博は大学3年、貧しさをバネにした勤勉勤労型高度成長時 代の幕を下ろさせたオイルショックは大学院修士課程入学の年・・・高度成長時代の栄枯盛衰を人格形成期(学童期~青年期)に重ねる団塊の世代の一人とし て、社会に巣立つ準備をしました。

◆これらは・・・この世のヒト、モノ、コトに変わらないものはない、かえられないものはない、という感性が埋め込まれる原風景になりましたが・・・

◆ それゆえに、若き日の努力と夢の実現がリンクする右肩上がりの未来を実感できた人口ボーナス期の成功体験から自由になって(捨てて)、老いを実感する日々 の中で、人口オーナス期の負担分配システムの受容の覚悟を説くことに躊躇しない感性・・・それどころか既存の利害に固執する旧弊にいらだつ危機意識(巡り 巡って形をかえた自己本位かもしれませんが)が自ら研究所を立ち上げるエネルギーに、と自己認定(正当化!)しています。 

閑話休題

◆ 大学院博士課程1年次の1976年2月に関喜代子と結婚しました。始まりは学部4年生(20歳)と新入生(18歳)の出会いからでしたので、4年の月日を 介して、私が博士課程進学、喜代子が高校教員(国語科)に採用されたことを契機に人生のパートナーになることを確認しあいました。多分、これは私の言い分 で、喜代子にとっては、自分のパートナーが高等遊民(夢ばかり追って働かない)になることを覚悟し、それなら私が働ける、と判断した結果、ということを共 通の友人から聞かされました。事実、2年後に長男が生まれましたが、その2年後に静岡大学に赴任するまで、私は喜代子の扶養家族でした。この刻印は、ジェ ンダー論の原点になり、退職後の今も成長し続けています。UER-Laboの原点でもあることを確認しておきます。

4)1979年、大学院博士課程修了と同時に、静岡大学教育学部に赴任

○ 社会科教育と社会学を担当できるもの、という特異な公募条件に応募し、なんとか静岡大学教育学部社会科教育講座に赴任することができましたが・・・。社会 科教育(実践→する)と社会学(実証:みる)という二つの草鞋をはく大学教員としての出発は、その後の私の研究の方向を決定づけましたが・・・実はこのよ うな総括はかなり先のこと。赴任した当時はそれどころではではありませんでした。

○静大教育学部での担当(制度の要請)は中学校と高等学 校 の社会科教諭と小学校教諭の免許取得に必要な単位として定められた教職専門の社会科教育法と教科専門の社会学の教育と研究でした。社会学はそれなりに蓄積 がありましたが、社会科教育は素人同然。母校で社会科教育学の研究室の博士課程にいる後輩に頼んで、社会科教育(学)に関係する文献リストを作成してもら いました。それをもとに、まずは静大図書館で探し、次に教育学部出入りの書店営業の担当者に依頼し、100冊近い書籍を収集し、読み飛ばしました。

○ 上田薫、馬場四郎、長坂端午、梅根悟、滑川道夫、吉本二郎・・・社会科誕生にかかわった先生方の名前を知ったのもこの時期でした・・・実は梅根先生をのぞ き、すべて母校で教わった先生方でした。もっと教わっておけば、との思いがよぎりましたが、その一方で、誕生期からの社会科という教科と教育の変遷をたど る過程で、社会科の初志とされる論と実践双方に違和感なく理解できたことは、母校の先生方のおかげと感謝しています。しかし、このような総括もいまだから 言えることで、この時期の研究者としての私の関心は、大学院時代の思考の延長にありました。

◆その証左が、この時期に発表した次の拙稿4点が「アーカイブ」の「論考」のスタートの位置に並んでいることです。

 (1)「K.マンハイムの『知識人論』再考-現代教育の再生のために」

    『教育社会学研究』第30集(日本教育社会学会編)1975年10月

 (2)「M.ウエーバーとK.マンハイムにおける 》Wertfreiheit《 の問題についての一考察

    -新たな教育研究の序として-」

    『教育学研究集録』(東京教育大学大学院教育学研究科編)第16集 1976年12月

 (3)「『知識の社会学』としての『教育社会学』のために(1) -予備的考察-」

     『教育学研究集録』(筑波大学教育学研究科編)第2集 1979年1月

 (4)「『知識社会学』再考(1)」

     『静岡大学教育学部研究報告(人文・社会科学篇)』第22号 1982年3月

◆ いずれも理論研究ですが、その内容は論の整合性よりも現実を切り裂く問いと解決のための処方箋の提示を求めるK.マンハイムの知識人論を引き継いでいま す。アーカイブに入力するためのPDF化作業中に読み直し、35年以上の時を超えて、20代に書いたことを一生かけて実現するのが研究者の人生、という大 学院在学中に先輩から教えられた言葉が蘇りました。

◆「論の整合性よりも現実を切り裂く問いと解決のための処方箋」という私にとってのマ ン ハイム知識人論のエッセンスは、静岡大学教育学部の教員として義務教育の教師を育成する場にいることへの違和感の源になりました。静岡大学に赴任した年の 1979年から翌年の80年にかけては、全国の中学校で校内暴力という名の学校と教師への反抗の嵐が吹き荒れたからです。静岡県も例外ではありませんでし た。大学紛争から高校紛争への広がりは、選ばれた側に入るコースの学生と生徒による言葉の論理を介した“異議申し立て”でした。それに対して、80年の校 内暴力は、内側から沸き起こる違和感を言葉で表現するする術を獲得できなかった側から、それを教える(保障する)側の学校と教師への反抗(破壊!)、とい う視点からの位置づけから逃れることができませんでした。

◆このような現状の学校と教師の在り方への疑問視に形と感情を与えてくれたドラ マ がありました。「3年B組 金八先生」の第2シリーズが高視聴率をあげているときでした。第1シリーズの「贈る言葉」にかわって「人として」が主題歌でし た。「鳥のように生きたいと・・・・私は大地に影落とし 歩く人なんだ」という歌詞と「優は人を憂うると書きます」との荒れる主人公「優(まさる)」を 思って金八先生(武田哲也)の語る言葉が心に残り、研究室の学生たちと創る冊子の題名を「人として」にしました。

 この時期の学校と教 師、 そして教員養成を仕事とする自分の位置に感じた違和感は、今なお続いています。事前に決められたこと(自分が責任を負わなくてよいこと)を優先し、子ども たちが生きていかねばならない人口減少時代の課題を知ることを求めない(拒む、無視する、見て見ぬふりをする)学校と教師への違和感に引き継がれていま す。その意味で、「甚句減少時代の教育課題を求めて」というUER-Labo設立のコンセプトは、マンハイム知識人論と金八ワールドの現代版といえるかも しれません。

 この点も、「調査研究の部屋」で展開したいと思います。

◆このような静大に赴任する時期の思考と出来事の交錯のなかで著した次の拙稿を「アーカイブ」の「分担執筆」にストックしてあります。

 (1)「社会意識の社会学」『現代教育の社会学』文教書院 1987年5月 所収

    pp.181~193

 (2)「人間の社会的形成と教育の論理」『現代社会の社会学』川島書店 1980年12月 所収

    pp.115~138

 (3)「現代の教師意識」『現代学校論』亞紀書房 1982年4月 所収  pp.149~168

 いずれもページ数が示すように、ショートショートの内容ですが、30歳前後のとんがった知と情の勢いで書いたものです。UER-Laboのルーツを確認いただくためにもご一読いただけることを願っています。

◆ なお、研究室の学生とともに毎年卒業時に作成した『人として』は、PDFにして、UER-Laboの「馬居家の食卓」に掲載する準備中です。もう少し待ち ください。あわせて、UER-Laboの活動を報告する情報誌『新人として』を秋深まりし頃に沖縄お届けできるようにします。

 少し横道にそれましたので、本旨(プロフィール的同時代史)に戻ります。

  静岡大学教育学部講師から4年を経て、30代半ばで助教授に昇進?し、教員養成に責任を取らなければならない立場になりました。しかし、実はこの時期は、 研究者としての意欲と時間の多くを、大学の外での調査研究に割り振ることになりました。静岡県と県内市町村の行政施策である社会教育・生涯学習推進と婦 人・女性行動計画策定に参加する機会を得たからです。

 ここから第二部です。UER-Laboの顧問になっていただいた先生方は次々と登場します。楽しみに。

 今週末にアップする予定です。

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